No.19

愛おしい日々

本好きの私が、本が読めなくなった話

 本が読めなくなったのが一体いつからだったのか、私ははっきりと言葉にすることができない。

 

小さい頃、それこそ幼稚園に通っていたくらいから、私は本が好きだったらしい。

母親に絵本を読み聞かせてもらうところから始まり、自分でも読むようになって、小学校低学年の頃には、鈍器のような文芸書(ハ◯ーポッター)をランドセルに入れて持ち歩いていた記憶がある。私はハマったものに影響されやすい性質で、特に本からは強い影響を受けることが多かった。黒く塗った割り箸で友だちと呪文を掛け合った休み時間もあった。今思えば、それ自体が魔法のような時間だったが。(他にも、通学途中にバスで読んだ怪人二面相のせいで、私はマンホールを踏むとき今でも慎重になるし、青い鳥文庫のはやみねかる作品が私から睡眠時間を幾度となく奪ったせいで、私は背が伸びなかった!)

 

中高生になっても私の本好きは変わらず、あるときまではほぼ毎日、本を読む時間を作っていたように思う。

自分の好きな本が直木賞を受賞していた場合が多々あり、そこから直木賞受賞作品が気になりだした。ネットで一覧を探し出し、気になった題名のもの(そしてできるだけ新しいやつ)をいくつも読んだ。「対岸の彼女」、「テロリストのパラソル」は、“私の好きな本Best3”に今でもランクインしている。

 

そんな私だが、最近はほとんど本を読まない。買うことはあれど、読むことができず、積むばかり。本棚のスペースは日に日に減っていくが、読んだ冊数は増えない。

読むことができない、というのは、私の場合、時間がないから読めない、のではない。集中力と気力が続かず、読み進められないのである。読もうとしても、内容が頭に入らず、目が文字の上をただただ滑っていく。頑張って文字を追い、ページをめくって、「今日は進めたぞ」と思っても、読んだ内容が全然頭に入っていない。それは読んだことのない新しい本でも、以前読んだ本でも同じだった。

 

大好きであるはずの本が読めない、ということはかなり辛く、私は趣味の一つを失った感覚になった。しかし、困ったもので、本が好きなのは変わらないから、読めなくても買ってしまう。読めないなら本を嫌いになってもいいようなものなのだが、本の題名、帯、裏表紙の紹介文の短い言葉たちから、本の内容を想像して、「きっとこの本は素晴らしい体験をもたらしてくれるに違いない」と考えるが楽しく、本自体や、本屋、図書館を嫌いにはならなかった。時折、買った本の装丁を眺めては、自分の想像したような“素晴らしい体験”(その本を読んだ後に得られる感動)を求めて、本を開いてみるのだが、得られるものは自分に対する失望だけだった。ほとんどの場合数ページ読んで挫折、ひどいときは字面を眺めただけでそっと本を閉じてしまった。

 

読書を趣味にしていた頃は、本を“読む”のが好きだった。夕飯や睡眠、生きるために必要なことをないがしろにして読書に耽るのは快感だった。本を読むことで得られる全てが、私を再構築していくのだ。

それなのに、脳みそが文章を貪って回転を早める感覚も、読後にくる、あのずっしりとした不思議な感動も、私はもう何年も味わっていないような気がする。

解決策は未だ見つからず、原因もはっきりしない。

 

今日、こんな日記を書いたのは、図書館に行ったからである。

図書館に行って、本に囲まれて、それをとても嬉しいと感じて、「ああ私は本当に本が好きなんだ」と思ったこの気持ちを、忘れてしまわないように。

言葉に、してみた。

夢のつづき

眠りたくない。

夢など見るくらいなら。

そう思うのに、いつも知らず知らずのうちに眠りに落ちている。

昨日は。

夢の振幅の中で、二度と会うことのない誰かの声を聞いた気がした。


今朝。

しばらく見ていなかったLINEが、珍しく音を出して主張した。

開くと、告げられたのは「久しぶり」の一言。

これまた、もう連絡を取ることができないだろうと思っていた相手だった。


歌を歌った。

本当は歌いたくなかった。

話がしたかった。

でも、話せないから。

歌った。歌いまくった。

二度。頭を撫でた。

髪が柔らかかった。


今日。なんと特別な。不思議な。一日だったろう。


今日に。あの人に。

またね、がないのだとしたら。

またね、がないかもしれないから。

今日を忘れまい、と。

閉まっていた鍵を引っ張り出し、日記を書いた。それだけ。